それとは別に小西行長は、明側から外交にあたっていた沈惟敬 しんいけい と画策し、偽作した秀吉の降表(表とは明皇帝に奉る文書)を家臣内藤如安 ないとうじょあん に持たせて明皇帝のもとへ派遣していた。 - 豊臣秀次が自害• 日本軍は追撃して300名余を討ち取った。
176月1日付でに宛てたの中にも「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している。 また船等は摂津、播磨、和泉に翌年までに集合することを命じた。 同年七月、日本軍の主力はまず元均(元均は李舜臣の出世を妬んで李舜臣を陥れ、忠清・全羅・慶尚三道の水軍統制使となっていた)の率いる慶尚道巨済島の朝鮮水軍を破り、元均は加徳島で敗死した。
7当時、日本全国の総石高は約2000万石であり、一万石あたり250人の兵が動員可能とした場合、日本の総兵力は約50万人であった。
7」という記述があり 、李如松軍のために兵糧等の手配もしていた朝鮮のであるが著述したには、「李如松提督が率いていたのは皆北方の騎兵で火器を持たず只切れ味の悪い短剣を持っていただけだった。 7月 - を豊臣秀吉が破壊させる• ところが朝鮮側は先に誠意を見せろと数年前に倭寇が起こした事件を持ち出して、対馬へ逃亡したと疑われる朝鮮人の叛民・沙乙背同(サウルベドン)なる人物の引き渡しを要求した。 他方、明のはこの期間中に日本軍の殲滅作戦を進めている。
18開城の宣祖は、漢城府が占領されたこともまだ知らなかったが、右承旨申 磼を軍民の鎮撫に派遣したところ、すでに陥落していたことを知り、から引き返して報告。 イエズス会員と日本人 鶴松死亡説(鬱憤説) (天正19年)正月、を始めさせた秀吉であったが、その直後(日付の上では2日後)に弟であるが病死するという不幸があり、さらに8月にはの死という大きな悲しみに遭遇した。
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