これについては、すでにこの年の3月末に陸奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに気がつかなかったといわれる。
7なお、陸奥はその後すぐにアメリカとの交渉に乗りだし、法権回復を伴う新条約締結の合意を取り付けたが、米国内の政権交代や日本本国のイギリスへの配慮、大隈案に対する国内世論の反対(後述)などが重なって成功しなかった。 朝鮮に出兵するときはお互いに通知することになりました。
すなわち、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあたるというのである。 黒田内閣の時、大隈が外務大臣であったが、又この暗礁に乗り上げた。 〇陸奥宗光 1894年に領事裁判権の撤廃に成功。
10ペリーは「黒船」を率い、江戸のすぐ近くで力を誇示した。 1911年小村寿太郎外相のとき,関税自主権を回復した。 井上は各国の要求を容れて、改正の基礎案を審議するための予備会議()を開くこととした。
不平等条約の締結から今日にいたるまでの日本外交の歩みや国際法上の関係などを詳述した歴史書を出版すること。 これが、二国間交渉による条約改正の難しさであり、その後も日本は二国間で交渉を進めるか、多国間交渉でいくかで揺れ動くこととなる。 よくは覚えぬが、十月十五日か十六日であったと思う。
この事件は井上馨が大隈の条約改正交渉の際、改正の是非に関する議論にかかわるのを好まず、10月にいたるまで東京を離れていたにもかかわらず、首相黒田の辞任後も留任要請を受けて三条内閣の閣僚となり、今また条約改正失敗後の新方針策定に井上の名があるという一連の事態について黒田が激怒し、泥酔したうえ井上馨宅に乱入して狼藉をはたらいたというものである。 つまり、アメリカを例に挙げますと、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本人裁判官が判決を下すことができず、アメリカの法律のもと、アメリカ人裁判官によって判決が出されてしまいます。 日本が他の西洋列強と交易して、アメリカとだけ交易しなかったら、もっと困ったでしょう。
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