こうした背景から北条は代わりに武田信玄と甲相同盟を結びます。 しかも、上野には滝川一益が関東管領として入り、 から に拠点を移すなどした為、北条氏政は織田信長に対して関東一括統治を嘆願したが、織田信長は無視した。 北条氏直が徳川家康の娘婿であったように、氏規にも家康との縁がありました。
9北条家側は上野の館林赤井氏、武蔵の松山上田氏。 そして下野国の南半分を支配下に置きました。
元亀2 71 年にもたびたび武田軍と戦ったが,やがて信玄が三河の徳川家康を攻めると,氏政は兵を常陸,上総などに出し,佐竹氏,簗田氏などと戦った。 北条氏政は500羽の雉を 織田信長へ奉げるために へ送っています。 1578年、上杉謙信が死去すると、その後継者をめぐって上杉謙信の甥・ と、北条氏政の弟で上杉謙信の養子として上杉家に入っていた上杉景虎の間で後継者争いである が勃発。
19小田原城天守閣。 101• 氏政としてもここまで巨大になった織田氏に対抗できないと考えたのでしょう。 『駿河土産』によれば、北条側は、同盟を結んでいる徳川より自分達の方が格は上だと認識している節があった。
これは従来の武田氏とのかかわりを捨て,改めて親織田,武田撃滅の姿勢を示したものとみられる。 氏政はこの時、下野国において佐竹氏・と対陣中であったため、5月に景虎援助のために氏照、氏邦らを越後国に派遣した。 1572年、武田信玄の三河・織田領国への侵攻 西上作戦 の際には、諸足軽衆の大藤秀信や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2000を援軍として武田軍に参加させている。
4月に入ると、佐竹義重、里見義頼、他関東の諸勢力、、、ら、奥州の諸大名も、信長の代理である一益に使者を送り、貢物をして、信長政権との接近を図っている。 この同盟は条件の調整不足等より 、結果的に対武田対策として十分な成果を得られていない旨の不満 があった。
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