信政の嫡男信栄は年齢を詳にせぬが、前後の事情より推するに、信政は早く隠居して、家を信栄に譲つたらしい。 蘭軒の生れた時、父信階は年三十四、母曾能は二十八、家系上の曾祖父にして実は外祖父なる信政は年六十六であつた。
16しかし推するに二洲の譴責は「物ごとにうたがひふかき」山陽の感情を害して、山陽は聖堂の尾藤が官舎を走り出て、湯島の通を北へ、本郷の伊沢へ駆け込んだのであらう。 有信は貨殖を志し、質店を深川に開いた。
曾能は遂に信階の妻となつた。 独り榛軒の養嗣子 棠軒 ( たうけん )は、嘉永五年十一月四日より明治四年四月十一日に至る稍詳密なる「棠軒公私略」を遺し、僅に中間明治元年三月中旬より二年六月上旬に至る落丁があるに過ぎぬが、其文には取つて蘭軒榛軒二代の事跡を補ふべきものが殆無い。 明和五年八月二十八日に父信政に 先 ( さきだ )つて歿し、長谷寺に葬られた。
13そうしたことからどんどんエスカレートしていったのかもしれませんし、楽にお金を稼げるという判断に至ったのかもしれません。 「堀子」とは年寄堀江典膳であらうか。
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