寺域は幽邃 ゆうすい の美趣をたたえ、大光明 だいこうみょう 寺、光源 こうげん 院などの塔頭 たっちゅう が連なる洛北 らくほく の名刹 めいさつ である。 『北禅詩草』6巻2冊(1792)• 足利 あしかが 3代将軍義満 よしみつ が後小松 ごこまつ 天皇の勅命を奉じて創建した寺で、1383年(弘和3・永徳3)10月に起工し、1385年(元中2・至徳2)11月に仏殿の完成をみた。
京都市営バス59・201・203系統「同志社前」下車2分。
これは同年1月に天皇の第五皇女で宝鏡寺門跡第二十世の理昌尼が没したとき、墓所である当寺が荒廃していたことによるもので(『東西歴覧記』)、『雍州府志』には「仙寿 理昌 院塔 在万年山真如寺、宝鏡尼寺之一代、久岳昌長老而、後水尾院第六皇女也」とみえる。 53歳になり帰山すると相国寺住持に推され、続いてとを任じられる。 の48番霊場です。
勝国寺は、吉良政忠(法号勝国寺照岳道旭)が開基となり、世田谷城の裏手鬼門除けとして丸香山薬師院と号しと号し創建、吉良家滅亡後も江戸幕府より12石の朱印状を与えられた御朱印寺として栄え、末寺6ヶ寺を擁した小本寺だったといいます。 切り妻が目立ち、大きい破風と壁面が特徴です。 ・西塔跡には瓦の破片が散乱していますし、日本史上最大の仏塔だった大塔跡からも瓦片が出てくるはず!!真相は発掘調査までお預けです。
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