しからば前門の虎、後門の狼となり、なすすべがなくなる。 辞職し領土に帰る、今が時期である」との気運が怫然とした。
長男・(1869-1910) - 陸軍騎兵大尉、議員• (幼名、銈之丞) 1846年(12歳)会津松平家の養子となる。 劣勢だと判断した奥羽越列藩同盟の主力藩は次々に降伏を表明、会津藩も米沢藩の勧めで最後には降伏することになりましたが、このときすでに町の大部分は焼野原だったといいます。
4容保にすれば、己の支えにしていた2人を相次いで失ったわけで、とりわけ天皇の崩御には、悲嘆が深かったはずです。 戦に慣れぬ宮廷内も大騒ぎとなり「長州兵は3万」という流言も飛び交い震えあがったが、孝明天皇は「全て容保に任す」と言い、容保は落ち着いた様子で「敵が何万居ようと我等会津の精鋭にて一挙に殲滅仕ります」と場を鎮めたという。 しかし長州兵が入京するにおよび、会津藩士の憤慨は度を高めた。
612月25日、孝明天皇が突然の崩御。 一つ、幕府に従う者は、深く勤王尊奉の道を相立て候えば、万民、幕府をやはり尊ぶの道理にて、欣悦これにすぎず候事。